T-MESSAGE VOL.49

日頃は、弊社の事業に多大なるご協力を賜り、誠にありがとうございます。
日本は3月31日が年度末。4月1日から新しい年度が始まります。学校も企業もこの時期を終わりと始まりにしているところが多く、それを桜が彩ります。散る姿に風情がある花木は外国にもあるのかもしれませんが、散りゆく桜は日本人の情緒に強く訴えるものがあります。「散る桜 残る桜も 散る桜」一瞬の命のきらめきを大切に生きたいと思います。
さて、当社は今年の4月2日で、設立40周年を迎えます。父である先代の藤代衛(まもる)が、1985年4月2日に、有限会社 藤代組を、株式会社 藤政工業に変更しました。
会社名を「藤衛工業」ではなく、「藤政工業」にした理由は、私に跡を継がせたい一心からでした。会社名を決めるまで、悩みに悩んでいる父の姿と、「お前の名前を社名にしたんだから絶対に継げよ!」と迫ってきた父の姿は、記憶の中にはっきりと残っています。
私が入社したのは1994年の8月1日。会社設立後9年と3ヶ月が過ぎた頃でした。
お付き合いしていたお取引先は大和ハウス工業横浜支店様、厚木の天幸開発様、鉄骨工場の三協組様ぐらいで、その三者様から鉄骨、足場、デッキ、鍛冶工事の仕事を頂きながら、なんとか営業を続けていました。その当時の日本はバブルもはじけており、今でいう「失われた30年」が始まったばかりの頃です。まさか30年も不況が続くとは誰も思っておらず、「今に良くなる、今に良くなる」と未来を信じて、現場に出て懸命に作業をしていました。
先代の昔の部下の方(昔の言葉で言う「若い衆」です)を頼って、積水ハウスの戸建て住宅の建て方工事をやらせてもらったこともありました。その方が、積水ハウスの子会社の積和建設西東京様の社長を務められていたので、3棟ほどやらせてもらいたのですが、なかなかうまくいかず、赤字工事が続き、結局撤退してしまいました。
先代と二人で静岡の鉄骨工場に営業挨拶にも廻りましたが、なかなかお仕事を頂くところまでいかず、仕事が無くて毎月毎月赤字が続き、何をやってもうまくいきませんでした。
当時の私が持っていたものと言えば「若さ」と「負けん気(工事責任者様とも平気でけんかしていました(笑))」だけで、知識も知恵も技術も経験も人脈も何一つ持っていないまま、父と母と三人で平成大不況に立ち向かっていた、「徒手空拳の青二才」でした。
中学3年で、自分の名前の入った会社がこの世に誕生し、あれから早や40年が経とうとしています。父とは四半世紀ほど一緒に仕事をしました。私にとって父や母は、共に戦った戦友です。亡くなった戦友は、40周年を迎える藤政工業を見てどう思っているでしょうか?「仕事は明るく楽しく真剣に」 これからもご愛顧の程、どうぞよろしくお願い致します。

 

株式会社 藤政工業
代表取締役 藤代政宗

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